小林家の人々

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本書の感想はまずこのエピソードの紹介からはじめよう。小児科医師・小林提樹がまず走り出し、重症心身障害児をもつ親たちも馳せ参じ、多くの篤志家・実業家の助力・協賛によってようやく設立された島田療育園(東京都多摩市中沢)。その看護婦長がねむの木賞を受賞し、昭和42年11月東宮御所に参上します。「施設の誕生を喜ばれる美智子さまに、緊張しながらも(略)「施設までの道のりがでこぼこで、車が馬のようにゆれ、ほこりも大変です」と申し上げると、美智子さまは声を出してお笑いになり、「それでは、私が工夫代わりに参りましょう」とおっしゃって下さった。(略)それから何と昭和43年(2月)に、美智子さまの訪問が本当に実現されることになった。そのため、急遽、桜ヶ丘から中沢の奥までの道が舗装されたのである」。
 こんなすげえプリンセスが日本にもいるんだぜ! 

 「西のびわこ学園、東の島田療育園」と言われてたらしいのに僕はこれまで西の糸賀一雄さんしか知らなかった、それこそ自宅から車で行ける距離にこんなにも素晴らしい施設があり、こんなにも偉大なお方が尽くされていたとは……。
 大戦中は軍医として戦地を流転した若き医師・小林提樹は、敗戦後復員するや日本赤十字社産院小児科に勤め始める。戦後直後の混乱期、外来を訪れるのは、肢体不自由や行動異常、視力・聴力の困難、発達遅滞・精神疾患等いくつもの障害を抱え生を受けた子どもたち。診療どころか困窮極まれる親の手に余り捨てられることも多く、まして「捨て子を育てることは、どうせ不義の子であるから、不義を助けることになるので、やるべきことではない」「自分が食えないのに、子どもを引き受けで面倒をみようというのは、どういう感覚なのか」と陰口すら叩かれる世相にあって、しかし提樹は信念を曲げなかった。

 法の枠組みを無視して重症心身障害児の孤児たちを産院に収容する。「目の前に親に育てられない、見捨てられた子どもたちがいる。その子たちをどうして見捨てることができようか。提樹にはできない。ただそれだけであった」「社会福祉とは、うそをいうものではない。道徳の問題なのだ。法律があるからやるというものでもない」。打算や理屈より先に信念が立ち、信念や正義より先に信仰に裏打ちされた愛があった。
 そんな提樹に、精神遅滞でてんかんも持つ息子を診察してもらった経営者・島田伊三郎は申し出ます、「学校に行けない重症心身障害児を受け入れる学園を作って欲しい」と――。候補地住民の反対運動、土地を確保できたのちも慢性的な資金不足問題や、医療と福祉を越境するためお役所的セクショナリズムに翻弄されながらも、米軍の協力もあって昭和36年末ついに完成。「島田療育園という、わが国初めての、生きた屍のような重症心身障害児だけを収容し、治療する施設」。

 しかし小林提樹は当初一医師として参加するつもりだった(施設長は別の人間に任せるつもりだった)、だが建設運動のうねりにあって一大決心し初代園長に就任。彼があくまで一線の医師であり、またそうあることを望んでいたこと、経営や交渉ごとは素人であるという自覚もあったろうか(整理整頓や時間を守るといった社会常識にも欠けたところがある)、高度経済成長にともなって労働運動が高まり→島田療育園においてもスタッフが外部から招請した組合のプロと労使交渉の矢面に立たされた提樹は、精神的・肉体的に追い詰められ、ついに園長を辞任してしまう……。
 「子どもを育てるのには、まず育てるもののほうが空腹であってはならない」、施設職員の待遇改善はたしかに重要だけれども、組合闘争(ストライキ)によって被害を受けたのは、施設の存在理由であり目的でもある当の子どもたちのしあわせであった。「子どもたちにとって、一番大切な人は、そばに寄り添って一緒に遊んでくれる人である。いくら正義をふりかざし、正論と信じていることを語ってもそれは子どもたちにとっては何の意味もないことである。本当の正義とは何であろうか。子どもたちのことを思い、組合の混乱のなかでも子どもたちを守り続け、働き続けた職員や家族……。これこそが本当の正義である」。

 社会福祉の職業倫理として自己犠牲を強いるのは間違っているし、一職員の現実的な幸福と敬虔な管理者の宗教的観念を混同してはならないと思うけれども。しかし「本当の正義とは何であろうか」という小林提樹の断末魔に近いこの提起は、打算も理屈も正論も一瞬にして打ちのめされてしまったあの日以降を、生きている我々の胸をつよく打ちつけてやまない。
 現在島田療育センターはちおうじ所長を勤める小児科医によってあらわされた本書は、島田療育センター創立50周年を記念して出版されたものです。同施設が歩んできた辛酸と希望の歴史、とくに重症心身障害児の多くが人知れず座敷牢に囚われていた時代・夜明け前の社会に及ぼした多大なる影響を、悲劇性や陶酔感といったエモーショナルや、自己正当化・一方的な非難などの外連味を極力排しつつ関係者の情意を実直に概括する。

 ただそれゆえ、タイトルに掲げられている割に小林提樹個人の伝記面がややもすると後景に退いてしまい、晩年はいささか端折り気味だし、かの水上勉が池田総理大臣宛に発表し時の政府すら動かした"手紙"の全文掲載や、島田療育園を扱い反響の大きかったラジオ番組のテキスト化など引用部分がずいぶんと多い。総じて本書は、いうなれば(良くも悪くも?)島田療育園の"てっぺん"から社会と人の思いの流れを俯瞰しているかのようなスタンスでございました。
 個人的には、もうちょっと小林提樹個人の人生を読みたかったですけど。とはいえ施設の来歴が提樹をはじめとする多くの人々の歩みであり、積年の熱願の結実であり、想像するだにあまりに痛切な数多くの家族とエピソードとをつらぬく、無属性で無償で無上の感動が本書には溢れています。つながる想いが歴史をつむぐ。思わない人間はいないから、誰かを。誰にも明日はきっとやってくる。じゃあ僕らは今日なにをすればいいのか、とりあえず「愛することからはじめよう」。

「僕ね、あれ感傷じゃないと思うんだ。どういうものか泣いちゃったんだよね。下町の中学二年生で実に淡々としているんだな。この子どもたちと遊びたい。かわいそうだというより、あの子どもたちと遊びたい。それで、電車で二時間も三時間もかかって、ここにきている。それが実に淡々としているんだな。そこに素朴な意味でひとつのひかりがあったと」(192頁)

 私たちは無力なときに力を、苦しいときにやすらぎを悲しいときには友を求めてきました。しかし、力あるときに何をし、愛に恵まれたとき私たちは一体何をしてきたでしょう。(186頁)

http://tsukimori.sakura.ne.jp/2011/08/post-579.html

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